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春分

水曜日の春分の日にニックが京都へ来た。神戸へ寄ってから、夕刻に来た。プレゼンテーションするというから四条烏丸の百貨店に入ったワイン屋へ歩いて行く道すがら、古からメールがあって京都駅に着いたということだった。古はどうするか決めていなかったけれど思い立ってきたらしい。ワイン屋へいくと愛好家がニックの周りにいた。ニックはぼくを見つけるとウインクしてグラスを手渡した。プレゼンテーションが始まると日本人の司会はかれを「ナパ・バレーの若きワイン醸造家です」と紹介した。順にグラスにワインが注がれて試飲できるのだった。ABテストみたいなのをやるのだった。AとBどちらが美味しいか、手を挙げてくださいという。ぼくが挙げたAは高いワインだった。自慢したい気分になったが、Bは同じ葡萄で作ったニックの家のワインだった。古はなかなか到着しなかった。一時間も来なかった。西海岸のワインは繰り返し注がれるのだった。メールしたら「丸太駅にいます」とのこと。そんな駅ないから。

プレゼンテーションを終えたニックがサインをしたり、写真を撮ったりしているあいだ、ココン烏丸の地下のハブで古と待つことにした。席につくなり古は「俺、だれかに監視されているんですかね」といった。「監視されてないよ」「やっぱりそうですよね」「大丈夫だよ」「俺、呪われてる気がして」「呪われてないよ」。こういうのもいいじゃない。古は映画見すぎたか、と思った。すると「俺、映画見すぎですかね」といった。「いいんですかね、俺が来たら、滅茶苦茶になっちゃうんじゃないですか」といった。ぼくは少し考えてみたが、滅茶苦茶になっても別にいいや、と思ったので、たいして気に留めなかった。古は落ちこんでいるから気づかないのだが、ニックもぼくも、古に自分の人生を滅茶苦茶にされても構わない。古は落ちこんでいるから、古がニックとぼくを濁流から救いだした、ということに気づいてない。別に気づかなくて構わない。気にしない。呪われてるなら、呪われてるなりに祝福したい。古のジャケットはやさしいライム色で春分の日にふさわしかった。Tシャツは木の根に背中をつけて坐る、乞食の写真が刷られていた。

灰色のラルフ・ローレンのトートバッグも。春分の夜の古のスタイリングが目に焼きついているんだけど、精神的に落ちている時に眼力というか、芸術的な勘が利かなくなるというのはないのかもしれない。むしろ鋭利になるのかもしれない。だって古、完璧だったからな。斑模様の日差しを浴びて、木陰で一休みしている乞食が古だった。古が自分の着ている洋服で語ったんだからまちがいない。古はなにも見失っていないし、むしろ見えている。かれは乞食が嫌いで、乞食をおもしろがっているくせに、乞食になりたがる。ぼくも同じだよ。若きワイン醸造家が仕事から解放されたので、交差点へ迎えにいった。「先週はもっと落ちこんでいたよ」とニックはいった。「あいつに話しかけてあげなよ」と指示したら、「日本語しゃべれるんだから、伊藤くんが話しかけてあげなよ」といわれた。だけど、ニックも日本語がしゃべれるよ。かなり学習してる。そういや、古に「新幹線で何してたの?」と質問したら、「ニックがくれた英語の教材を見てました」といっていた。なんかをかしかったんだけど、ぼくら語学に熱心な人みたいじゃん。

鈴やを予約していったら「豪快」は「五階」だね、とニックがいった。「豪快」は東京では見たことないけど京都には沢山あるよ、と説明してやった。ニックはいまロンドンにいる恋人をナパ・バレーに連れてかえりたいと云った。日本人とドイツ人のハーフで東京に住んでいる子だった。モデルをしているのだった。彼女は漢字の本をインターネットに売りにだしたんだよ。その本をニックが落札したんだよ。かれはドイツ系だから「東京の恋」としてはいいシナリオなんだよ。かれらが最初にデートした、丸ノ内の日本酒バーを紹介したのはぼくだよ。少しは感謝しろよ。若きワイン醸造家かつ東京でモデルやってる恋人がいるとか、うらやましい限りですな。いや、どうなんだろう。うらやましいかな。うらやましくないな。うらやましいってどういうことなのか、判るようで判らない。ニックは僕の代わりに、僕の生きられないルートを生きているのかもしれない。古はニックと僕の代わりにニックと僕の生きられないルートを生きている。それは間違いない。それは間違いないんだよ、古。だから、落ち込むことないんだよ。だけど、いくらでも落ち込んでいていいんだよ。謎謎みたいなことしか言えないよ。「豪快」は「五階」だよ。

鈴やから烏丸五条のぼくの部屋へ行く途中、古は行方不明になった。スタインベックやアイスバーグ・スリムのペーパーバックを交換したり、ニックがスペインの橋の下で乞食をしていたという話や、ニックが東京から婚約者を連れてかえったら、醸造所の職人は大騒ぎするだろうなんて話をしていたら一夜が明けた。高木珈琲店でトーストとウィンナーのセットを食べようと外へでたら三月の風が冷たかった。京都銀行の灰色の縁石に古が立っていた。古は消滅していなかった。日なたぼっこしていた。明け方、ホモに誘拐されそうになったとのこと。誘拐されそうになったのに、連絡先を書いた紙は受け取っておいた、とのこと。「一人部屋もあるぞ、とかいってました」とかれは語った。古を監視している人がいるとして、こんなくだらないやりとりを監視してなにになるんだろうか。ぼくには判らない。そう思ったら、なぜかiPhoneが手から滑り落ち、画面が割れた。古が「滅茶苦茶になる」と云った時から、なにかが滅茶苦茶になると思っていたので、ぼくはむしろ理解した。こいつはちょうどいい。保証に入ってるからいい。新品に交換できてうれしいくらいだ。アップル製品を一つ捧げて、友人の呪いを解いたんだよ。


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