Helter Skelter

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土曜日は一日、家でなにもしないで夕方に新町通の矢尾定で定食たべた。それから家の床に横たわっていて、八時くらいに終電の新幹線で東京へいこうかしらと思い、京都駅までは行ったが止めた。金沢でも行くかと思ったけど、止めた。ひとりで行ってもなにもかもが予想の範囲で退屈さ。京都駅、みんな浮き浮きしていて都会っぽかった。もどってきてわうわう点けたら「ヘルタースケルター」やっていた。なんとなく途中から見始めたら、あれおもしろいね。へー、映画になっているじゃない、とか調子こいて見始めたんだが、撮影がいいし沢尻エリカがいいしで見入ってしまった。蜷川実花、映画監督ですね。なめていました。申し訳ありませんでした。いいシーンばっかりで。雨の下でのたうちまわるシーンの自動販売機の照明、泣けてきますね。「鏡よ鏡、」で感動しかけた。窪塚洋介と密会する高層階の部屋、あれどこなんだろう。あんな場所があるんですね。東京湾の色彩も堂に入っていた。写真家だから。水族館もそう。感心することしきりでした。水原希子の花やしきのシーンもよくない。水原希子が進出しそうで進出しないバランスがよくなくない。沢尻エリカがぎりぎり食い止めるというか。演技、すばらしかったですね。ぼくは評論家じゃ、ないのです。ぼくは編集者です。東京で編集者をしていたぼくから言わせてもらえば、ああいう人、いるよね。あんな部屋に棲んで、あんな暮らししている人。いるいる。その感覚がよかった。あの感覚ってずっとある。消費社会みたいな。古いけど、ずっとある。おわらない欲望みたいな。もっと、もっと、みたいな。古いんだけど、世の中が新しくなる気配がないから、ずっとあるのだろう。いまあれを作る意味はなんなのか知らないが、ずっとそうなんだからいつでもいいのだろう。渋谷のスクランブル交差点と女子高生とかいつの話ですか、ってかんじだが、それもふくめて安心したというか。九〇年代のリバイバルも、いまどのへんなんだか。これでいい、というかんじ。ずっとこれだし、いつでもこれでいい、というかんじ。ただ、そのこれじゃない感というか、浮いている感じなんなんだろう。見たかったような、見たくなかったような光景。ナタリー・ポートマンの「ブラックスワン」もやっていて、二回くらい見た。「ヘルタースケルター」と似たような主題であると言えなくもないが、舞台女優(というかバレリーナ)の話となると、もっと普遍的なかんじがする。消費社会、関係ないじゃん、みたいな。ずっとある。九〇年代とか関係なくずっとずっとある。幻覚を見るのも共通しているね。幻覚、つらいね。幻覚はやだ。どちらも見ちゃったけど、人が追いつめられている姿を見るの、基本的にはつらい。東京に居ると余り思わないけど、京都から見ていると「なんでそこまでするの?」という白々しさがある。そこまで追いつめても、それは成り立たないでしょ、みたいな、ある意味でふつうの感覚が、田舎のほうにむしろある。さっきも松原通の商店街を散歩してきたんだけど、丁度いいサイズでやってる人、いっぱいいるよ。なんでそうなっちゃうの、みたいな。それが普通なんだと思う。あと、つらい思いしなくて済むと思う。「ヘルタースケルター」とか無駄につらそうだなーと感じながら見ていた。もっと田舎へ行くのもありだな、と思う。適当に書いているけれど。数日後には東京へ帰りたくなっているかもしれないけど。今、アスレチック・ビルバオとバルセロナの試合でメッシが得点したよ。バルサの試合もときどき見るけど、メッシがチートすぎて。あんまり熱心には見ていないんだ。ちょっと、書きたいと思っていたことがあるんだけど、映画の話から始めて、ここから軌道修正するつもりもないから、あと千文字くらい書いておわりでいいや。そういえば、ぼく、毎週ちゃんと書いてるんだよ。いちおう、書こうとはしているし書き終わっているのもあるんだけど、出さない楽しさ、みたいなのがあるんですって。そうなんですって。書いたけど公開しない、いくばくかの罪悪感と爽快感、みたいな。書いたけど、消したり。書いている途中で放置したり。そういう断片が行き場もないまま下書きやアイクラウドの肥やしとして溜まっていく訳です。だれでもそうでしょう。これはいまのところ公開しようと思っているけれど、公開されていることを祈る。そのあたりは空気感だから、書いている内容はいつもと遜色なくても、気分がちがうから、という理由で放棄したり、なんかちがうから、という感覚で放擲したり、いずれにせよ公開しないという選択は、それはそれで達成感がある様な気がする。いうまでもなく、公開されなかった下書きを見直しても冷却されてしまっていて使い物にならない。新しい気分で書き直す種にはなるかもしれないが、先週末に書いたものを今週そのまま公開しよう、というのはいただけない。ちょっと空気に触れている感じがいい。その空気が、表面にうっすら持続しているといい。その持続の感覚が、読者は好きなのではないだろうか。だから、更新しなくても体温と息づかいを感じられるのではないか。読者なんて、いないのかもしれませんが。ボットしかいなかったという、ありふれた哀しい話なのかもしれませんが。機械で作った文章をボットが読むという、不毛なんだか高度な文明なんだか判別のし難いことが、この世の中には多すぎる。この不毛さに比べたら、「ヘルタースケルター」なんて人間がいるだけいい。骨を削ろうが肌にメスを入れようが、とにかく人間はいるのだから。のどかな話ですね。最近は人間がいないケースがあるからね。これもボットが書いていたらどうしますか。「ヘルタースケルター」のアフィリエート踏ませるための文章かもしれないよ。(なんてね)忙しくて疲弊していたけれど、ブログを書いていたらすっきりしてきたよ。この休暇は、鋭気を養いながらまったりブログでも書こうかな。金沢へ行くよりおもしろいよ。金沢へ行ったつもりで金沢旅行について書こうかな。お金もかかりませんし。たぶん、こういう土地なんじゃないか、という空想はしている。空想の金沢で、茶碗蒸しでもたべよう。空想の茶碗蒸しに、えびとしいたけが入っていたらいいな。