日記

金曜日の夜は、TGIFに参加せず、宮本さんと松川酒店へ行った。たまにはいいでしょう。宮本さんとぼくは、最近、はてなの社内ブログのログを読んでいる。はてなでは、はてなグループを業務に使っている。入社してもうすぐ一年になるが、最初はぼくも慣れなかった。毎日、はてなダイアリーを書くために会社に来ているみたいだ。自分たちが日常的に使う道具を、自分たちの手で作っているのは、いいことだと思う。山に暮らして、家を建てて、野菜を育てている人みたいだ。一方で、自分たちが作った道具にずっと触れているから、自然になりすぎ、世の中の人がみんな使っていると錯覚するかもしれない。はてならしいと思う。この社内ブログは、過去に在籍した社員のログが、そのまま残っているのである。社員なら、だれでも読めるのである。

入社して一ヶ月程で、はてなブックマークチームに合流した時、ぼくも熱心に読んだものだ。サービスの履歴を紐解き、別のベンチャー企業で並走しながら眺めていた施策について、中の人の目線から追体験した。もういない人の日記にスターを付けまくった。初代のディレクターたる伊藤直也さんのログは、すべて読んだ。二〇〇八年辺りのチームの疾走感は、感動的である。ぼくもはてなブックマークグループに書き始め、二〇一二年のログを書き残すようになり、過去のエントリーを読み返すことは少なくなった。それが、ここ最近、再び読むようになったのは、クラッシュしたからだろう。端的に言って、はてなってなんなのか、分からなくなってきた。外側から見ていたら自明だったことが、分からなくなってきた。「はてなへようこそ!」ニヤリと笑っている下柳さんの顔が、なぜか浮かぶ。そう、下柳さんもいない。長山さんもいない。

宮本さんは、はてなの物語に関心のない、間違って入社してしまった人だ。その宮本さんが、社内ブログのログが面白いのを発見し、読み耽っている。ぼくには、それが面白い。「なにか、弱点が見つからないかと思って」。だいじな視点だと思う。会社をハックする目的で読み始めたのが、人文学的な興味へと移行したらしく、「大西さんが熱いこと書いてる」とか、「ミクシィの取締役になった川崎さん、昔から発想が全然違うんですよ」とか。はてなダイアリーを書くために会社へ来て、過去のはてなダイアリーを読んで帰るという、はてなの歴史を紐解くのが仕事みたいになっていて、ぼくが思うに、今は、それでいいんじゃないか。宮本さんやぼくのような、まったく新しいラインから交わった人が、はてなってなんだろう、と分析している。まるで、精神科医みたいに。

ぼくは幸運にも、ミクシィの笠原さんを観察する機会に恵まれて、会社が変わっていく様を眺め、もっとこうすれば良かったのかもしれない、という葛藤があった。だから今、かれらが新体制で立ち上がろうとしているのが、うれしいのだ。宮本さんも、ペーパーボーイ時代に、家入一真さんとはちゃめちゃしたらしい。その記憶が、頭蓋骨に灼き付いてしまっていて、かれは松川酒店でも、繰り返し家入さんの話をした。ようするに、われわれは、ベンチャーの諸相というのだろうか、インターネット企業の生態学に魅せられているのだろう。そうして、はてなが今、どこにいるのか、知りたいのだ。だけど、世の中よく出来ていて、よく分からない。はてなには、はてなの症状があり、病理がある。それは、はてなの幸福さと表裏をなすものだ。社内ブログのログは、自分だけがはてなを変えられると信じ、悪戦苦闘し、去っていった人たちの愉快な記録である。

愉快とか言ってないで、仕事しろって話ですが。面白いんだってば。先週いよいよ、ぼくが読み始めたのは、梅田望夫さんのログ。このコンテンツは、間違いなく、セントラルドグマであろう。ニコニコ的な意味で「全ての元凶」であることは疑いない。ここまで、一年も放置していたのが不思議なくらいだ。始まりであり、終わりであろう。はてながどこから来て、どこへ向かえばいいのか、書いてあるんだろう。けれども、ぼくは思うんだけど、こうして書いてきたのを、ふいにする様だけれど、結局のところ、だれよりも、ユーザーさんが知っている。ほんとうに不思議なんだけど、はてなの内側に潜って感じていることと、はてなブックマークのコメントに書いてあることが、完全に一致するという経験が、この一年、何回もあった。だから、外から見てクリアなことを、中のドキュメントを読んで知るという、おかしなことになっている。はてならしいと思う。

土曜日の昼、ホシ・クーペで髪を切っていたら、ナナフシっぽい虫がタオルに止まった。フランス人のアシスタントがつまんで通りへ捨てた。フレスコへ豆乳とシャンプーを買いに行き、テレビで映画を見ていた。夕方に大阪へ向かい、日本橋の文楽劇場で、半年ぶりに人形浄瑠璃を見た。吉田玉女の団七、ダイナミックに人形を振り回すような勘十郎とは又ちがう、リアリズムの良さがあった。長町裏の段は、何回見てもすばらしい。人間の心の計り知れなさ、というか。乱暴で、曖昧で、なにを考えているか分からないから、人間よりも、人形が動いたほうがいい。顔を叩いたとか、耳が切れたとか、言った言わないとか、戯れているようでいて、いつの間にか、生死が分かれるのがいい。帰途の列車、知らない駅名を眺めながら、ぼくは知らない土地にいるのだと思ったら、幸せだった。