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「若者の目に映る現実は、老人の見る夢」と古い映画の字幕に出ていたんですが、いいなと思った。今の自分の現実は、老人になった自分が見ている夢なのではないか、と考えるとおもしろい。だれもが一度は想像するだろう。自分は別の場所にいるのではないかと。アバターなのではないかと。あるいは、自分というのは偉大な宇宙の一滴で、たまたま、この身体でプレイしているのではないか、という、火の鳥的なアニミズム。いずれにせよ目の前の現実が、幾らか他人事になるのが効用だろう。リアルであると感じると苦戦するが、ゲームであると認識すれば無双する。そんなものかもしれない。また、別の世界でくつろいでいる、老人の自分に思いを馳せれば、この世界の自分には時間がある。まだまだやり直しは利くのだ。まだ始まってもいないのだ。ぼくの父さんは、ぼくが何才になっても、いつ会っても、君はまだ若い、という。そういうこと。

朝、目が覚めてテレビを点けて、古い映画を見る。音を消して、頭が冴えない内に、白い字幕の文字を見る。すると、へんな事を考えるのだ。上に書いたような事を考える。それは清潔な思考である。ぼくには、そう思える。ありふれた発想かもしれないが、世の中の汚らわしさから隔たれている。古い映画のように現実が遠い。私はあたかもアバターの主のようにテレビを見ている。そうして、少しずつ現実にログインする。チャンネルを国営放送にすると、同時通訳のニュースがやっている。中東の市場で六〇人以上が死亡したという。それは、リアルな話。衛星放送のニュースを見ていると、ゆっくりと、多層的な世界が、一つの平面に重なっていく。収斂する。空気に肌が触れる。動悸がちょっとだけ早くなる。今、ここにいるのだという説得力が、生起する。「若者の目に映る現実は、老人の見る夢」という夢想的なフレーズは、消える。

ぼくは、この体験が好きである。悪くない。夢に、重力が生まれる。現実の座標を教えてくれる。ここで戦わなくては、と思う。別の宇宙では老人の自分であり、鳥であり、虫かもしれないが、ここでは人間であり、社会の一員たる私なのだ。この体験が、ニュースだろう。もっとも器の大きい意味でのニュースは、ぼくにとってそういうものだ。これは夢ではない、とニュースは言う。ニュースは現実を言い聞かせる。あなたは他のだれでもない、と宣告する。社会と私の距離を措定し、明け方に遊離しかかった魂がどこかへ行ってしまわないよう固定する。自分は一つではない、と思想家は言う。ニュースは、幾つもあるかもしれない自分を良識という紐で束ねる。収穫されたばかりのほうれん草みたいにトラックの荷台へ放り投げられ、現実という市場へ輸送してくれる。(そこで、爆発が起こる・・・)火曜日の朝、古い映画の字幕から考えた。ぼくはまだ寝惚けている。