京都の発熱

三連休は、金曜日から日曜日まで京都にいたんだけど、いつもよりハレの都市だった。特別な空気が充満していた。ホテルの部屋はどこも予約済みだった。磨いた真鍮の様な秋の日が射していた。ぼくだけかもしれない。熱に浮かされてしまい、1ブロック歩くのすら一仕事だった。仏光寺通から綾小路通へ辿り着くのに、七年かかった。一つ一つの曲がり角に、複雑にもつれた組紐が垂れているような気分だった。赤や緑や紫だった。一つ一つほぐして廻りたかったけれど、時間が足りないし、意味が判らないし。寺町近くの本能寺ホテルへ荷物を預け、本のページの内を漂流していた。その本のページには、ロイヤルのママが登場した。税理士もいたし、西本願寺の裏の、空き家の主人もいた。

一年間住んでいる時に、京都の本は一つも読まなかった。目と足でぼくの地図を作っていくのを、当然の様に優先した。その試みは成功した。ぼくはぼくの文字しか書いていない白地図の上を斥候の様に移動した。最初から最後まで身体的だった。ときどき、耳から外の情報を取り入れた。これは、門ちゃんの声。堀川さんの声。それで十分だった。だれかの書いた文字は必要なかった。ところがどっこい、気分が変わった。東京へ帰って一ヶ月もしたら、京都の本でも読んでみようか、という気になった。あまぞんで適当に目に着いたのを注文したら、呪術書だった。身体の内の音や手触りが、ゴーレムみたいに名前を与えられて地表からべりべり起き上がった。書いた哲学者にとっては平熱の記録かもしれないが、ぼくにとっては発熱の触媒だ。だから、ロイヤルのママの幻が見えたのである。ぼくは発熱して、大丸に、堀川さんを置いてけぼりにしたんだ(すみません)。

この哲学者の本は、京都市バス二〇六系統に沿って周遊する趣向である。ぼくが、この本が、自分の本だと確信したのは、東大路を北上する途中で寄り道し、いかがわしいホテルに挟まれた、安井神社から祇園へアプローチした所。ですよねー、と思った。あそこなんだよ。あそこは、ぼくも見えていたよ。作者の言葉でいえば、孔(あな)が空いている。都市を歩いていると、いろいろな場所に、孔が空いている。ぼくは、ぼくに見える孔だけ見えていればいいと思っていたんだが、だれかの書いた文字と答え合わせをした時、肉体と精神が合流した。あのルート通っている人、他にもいたんだ、という驚きは、原始的なものだった。三次元だった。世界が折り重なった。文字ってすごかった。

よく、松原通を清水寺まで散歩したんだけれど、降りてくる時は、あの孔へ吸いこまれまくりだったよ。薄暗い。澱んでいて。東大路の排気ガスも酷い。信号もなかなか変わらないし。狭いから、轢き殺されそうだし。悪い場所で、早く立ち去りたいと思う。この場所が京都だとは思いたくないルート。でもぼくの白地図には記されているんじゃよ。あの辺歩く時、キョロキョロするよ。悪い事してないのに泥棒の仕草になるよ。いつも欠かさず曇っているよ。緑の壁にツタが生い茂っていた気がするよ。なにしろよく見ていないから曖昧になる。孔の内を、息を詰めて下っていく。本のページの内を、花見小路へと抜けていく。都市を繰り返し歩いた人なら、歩いている様に読むことができる。

 たとえば、濡れた石畳。驟雨の後もいいが、打ち水した石畳はもっと心地よい。足もとに広がる墨絵の世界。その上を歩くと顎を生暖かい蒸気が撫でる。足裏に頑固な石の肌理を感じたとおもえば、次の瞬間、危うくつるりと足を滑らせそうになる。下駄のからから鳴る音に、ときどきひぃーっときしむ音が混じる。水を打った石畳、それは、見た目には静謐でも、そこを通りぬけると、身体のあちこちでいろいろな感覚がにぎやかにさざめきはじめるのだ。線香の香り、苔の感触、家の前に水を打つ音、格子越しに聞こえる包丁の音、簾越しに漏れくる三味線の音、舞妓を叱責する女将のきつい声、竿竹、豆腐、花の売り声。木戸をくぐるときの腰のしゃくれ。かつをだしの匂い。障子がつくる陰影。つるつるに磨いた柱の手触り……。

京都の平熱――哲学者の都市案内 (講談社学術文庫)