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日曜日

正月みたいに天気がいい。鳩の森神社に初詣したい気分。スターバックスのソファで本を読みたい気分。写真を撮りたい気分。恋人に手紙を書きたい気分。ポケモンをはじめたい気分。たまごじいさんの家の前で自転車を漕ぎたい。だれかに名前をつけたい。だれかに名前をつけられたい。ブログは書きたくない。あと二時間で国立劇場に行かなくちゃいけない。夜は京都から来ているデザイナーとデートするから時間がない。レストランを予約していない。どこにするかも決めていない。東京よく知らない。

ここに一冊の九鬼周造の随筆集がある。岩波文庫の水色である。ガラスのかけらの様な本である。この本の内に、ぼくについてぼくが知りたい事が書いてあったのを報告したいのだが、上手く書けるか判らないのでいまから億劫だ。いまサウンドクラウド聞いているんだけど、随筆のサウンドクラウドが欲しい。九鬼周造をフォローしたい。岡倉天心もフォローしたい。もう十五年くらい、自分の内に沈潜している文章があった。水たまりの落葉の様なものだった。ごく短い文章で、だれが書いたのか知らなかった。

それは「小唄のレコード」という文章だった。九鬼周造の随筆集に入っていた。ページをめくった時に風が吹いた様な気分になった。ここで再会するとは思っていなかった。だれが書いたのか知らなかったのだから。病に伏している時に、窓から木を見ると、いつもとは違う新鮮ななにかに見える事がある。ぼくにとって、そういう文章かもしれない。その時、地下鉄に乗っていたんだけど。乗客や傘や銀の手すりが、いつもとは違って見えた。この本に、小唄のレコードが入っているなら、なにも心配いらないな、と思った。

なにが心配いらないのかといへば、喩へば、東京と京都を往来する事について。この本にも「東京と京都」という一編がある。かれは東京の根岸の生まれだが、京都大学の教授になった。東京では京都人扱いされ、京都では東京人扱いされた。春、夏、冬の休暇は東京に帰った。「東京と京都」には、東京はモダンで喧しく、京都は静かで学究にひたれる、と書いてある。この、特別な事の書いていない、だけど時間を超えている感覚が、日なたに置いてある石みたいに心配いらない。汽車の予約の様に心配いらない。

もうすぐ新幹線に乗るかもしれない、という予感の内で暮らしながら、九鬼周造の随筆について考えているのが、たまらなく心配いらないのである。もう一つある。随筆そのものについても書いてある。随筆についてずいずい書いてある。

近ごろ私はどうしてかよく随筆を頼まれるが、出来るだけ断るようにしている。私には自分である程度まで満足できるような随筆を書くことはなかなか容易でない。

この、随筆へのハードルの高さ。引き受けなよ、ていう。断るな、と。

随筆の前線に自分が現われ出てくるとしたならば、自分の善いことも悪いこともありの儘に正直にさらけ出して書くのでなければ自分の心にぴったりはまる随筆は書けない。私の考えているような随筆は一方には自分の悪の懺悔という形を取ってくると共に、他方にあっては自分の善良な部分の露出という形をも取ってこなければならない

このあたりの自我のコントロールは、ブロガーのそれではないか。

しかし深刻な悪の懺悔は、そうやすやすとできるものではない。また善良な部分は自分だけのものとして秘しておかないで明るみへ出すとその瞬間に善良さを失ってしまうという危険性を帯びている。

こういう自意識と、公開されたテクストの間の倫理が、似ている。

これらの事情からして本当にいい随筆は筆者が誰れであるかわからない無名または匿名のものでなければならないのではないかとさえ考えられる。

九鬼周造は、匿名の方がいい随筆が書けるかもしれない、といっているのだ。

そういうのが、可笑しくない。コートを羽織って国立劇場へいって戻って来た。春興鏡獅子。女形(めがた)の染五郎は久しぶりに見たかもしれない。初めて見たかもしれない。着物を纏った鹿がいる様だった。黄金色の舞台で、かれだけ人間とは別の動機で動いているのだった。日曜日の十六時にちょうどいい陶酔だった。ぼくはうとうとした。胡蝶の精の金太郎と團子は、たべちゃいたい。金太郎と團子、おいしそうだからたべたい。大劇場のだれもがそう思っていた。隣りの女学生は、双眼鏡をあてながら舌なめずりしていた。