Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

冬至

金曜日のランチの後、傘を持って外へ出たら、ひょうが降り始めた。通りを白い粒が点々と跳ねていた。時計屋の店員が軒先で様子を伺っていた。女性が他愛のない事を叫んでいた。曇っているのに賑やかであった。大勢の子の歓声が上がったと思ったら、青南小学校の教室の窓にずらりと顔が並んだ。コム・デ・ギャルソンの硝子の黒い水玉が凜としていた。中国人が英語でなにか話していた。わたしは回れ右をする。五分も経っていないのに引き返す。ユトレヒトへ行こうかと思ったが止した。ひょうの日になにか買った客になろう、と空想してやめた。火曜日にもう一冊、ナイジェル・ピークを手に入れたから、少しいやみかなと思って。函からだした許りの値札のない本に、其の場で値をつけてくれたのだ。「都市のなかで」という本、ほんといい。絵になる前のなにかと、地図にならないなにかと、詩と散文の間にあるなにかが、机の上と、路地を歩いているような本。これ、なんの意味があるの?ってすぐいわれそう。隙間にあるのだ。時計屋の向かいの、外に椅子をならべたカフェで、客がシャンパンを飲んでいた。老紳士が自分を撮影していた。

土曜日、朝九時から東海道線に乗り、本を読むことにした。恵文社店長さんの「街を変える小さな店」。大船までの小一時間で読めたのですが、すばらしい。書店とメディア論は勿論、左京区と京都のアンダーグラウンド文化の手引になっているのがいい。もう一つ、引用がいい。たとへば、「本よりも、本屋が好きな人は、本を、配達してくれなどとは言わない。しかし、本よりも、本の中味だけが好きな人は、牛乳のように配達してくれと言うであろう」と、これは、早川義夫。本屋さんが、丁寧に本を読んでいるのを知ると、うれしい。本屋の書いた本には、そういう魅力があると思う。ぼくがずっと考えていることだけど、新しい物より古い物のほうが偉い、と、主張するだけなら容易い。ツイッターとフェースブックはハイプであり、街の本屋さんをサポートするのは善い事だ、と、だれもが言う。問題は、実装の方だ。声の小さい人と弱い人に味方する態度のデプロイの話だ。この本から滲んでいるのは、あの、いやみったらしい京都人の、軽蔑と皮肉。新しいものへの熱狂に対する「しょうもな」の精神。静かで、冷たい反抗。あれだな、と思った。

といっても、日曜日の午に「ゼログラビティ」を観てから、新しい物と古い物とか、紙とインターネットとか、どうでも善くなってしまった。そんなことより、宇宙である。宇宙に人間が身体一つで往って還って来るというふしぎさを、諸君はもう少しきちんと考えなくてはいけない。どいうことなんだろう。アポロ計画、成層圏、分子生物学といったタームをいろいろ調べてしまった。九〇分というのがいい。筋書きが殆どないのもいい。シュレディンガーの「生命とは何か」でも読んでみようかな。九連休をどうしようか、いまから準備しておかねば手遅れになるね。今月は国立劇場が好演らしく、招待券が出なかったみたい。興行的にはそれがいちばんいい。初春の国立は、恒例の菊五郎劇団だね。これは羽目を外すから、初心者も退屈しない。歌舞伎座の一月はというと、井上ひさしの作品はちょっと見てみたい。正月から「山科閑居」だけやるのは少しへん?新橋演舞場は、獅童と海老蔵。同じ演目を昼夜やるそうで、いよいよジャニーズみたいになって来てうける。浅草の花形は、面子がいい。愛之助、猿之助、亀鶴。くわしくなくていいから、歌舞伎に誘へて、気の利いた感想を云ってくれる友だちがほしいけど、これが中々むつかしい。