カメラ

あけましておめでとうございます。旧臘に大掃除をして(ぼくはA会議室の窓を拭いた)はてなの皆さんと別れてから、もう半年は経つ気がいたします。いかがお過ごしでしょうか。飽いているでしょうか。わたしは暇に暮らすのが好きなので、あと半年好きにしていいよ、と云われたら、それはそれで上手くやり過ごすだろう。一年はいけるし、二年だっていけるだろう。これはこれで大層な修行のいる事なのだ。ニート乙。わたしは旅行にも出掛けなかったし、人にも会わなかった。一月一日の午前七時、明治神宮へ初詣へ行ったきりだった。竹の子と数の子を、ポテトチップスみたいに食べていた。そうして何冊かの伝記と、編み物の教則本と、リネンのカタログ、一冊の写真論を読んでいた。「たのしい写真」という本を、東海道線の内で、遅ればせながら読んだ。戸塚の辺りで富士山と並走していた。わたしはカメラについて考えていた。カメラがほしいのかもしれない、と予感していた。カメラを買ったらダメじゃよ、と長老(わたしの中の長老)が、すかさず戒めるのだった。わたしは長老に逆らうつもりは無かった。わたしには良く分かっていた。

写真というのは、だれでも撮れるので、カメラにお金をかける人は、間抜けである。そう思っていた時期が、ぼくにもありました。写真というのは、だれでも撮れるので、いつどこに居たか、の方が、決定的なのだと。ある意味で、民主的&プラットフォーム的な考え方であり、これは、米原康正さんに写真を習ったのが大きい。「アウフォト」という写真雑誌は、十年早いソーシャルメディアだった。一台の名機よりも全ての人にカメラを渡すべき、という考え方。いっぽうで、カメラというのが、自然に対して透明なフィルターである事は、あり得ない。だれも見たままに撮る事はできない。わたしは、最初からそれを知っていたんですが、長老(わたしの中の長老)が、見て見ぬふりをした方がいいと言うから、そうおっしゃったから、気づかないふりをしていた。じっさい、カメラは自然を創造するのである。だれにでも撮れ、作家性がある、機械が自然を創造する、写真というのは底が知れないので、わたしが暗い森に迷い込まないように、長老はわたしを守りたかったんだと思う。だから、白い髭を生やしてまで、ぼくに忠告してくれたんだ。

二〇一四年は、カメラだけは買わない。ぼくは東海道線の内で、富士山と長老に約束したんだよ。だけど、はてな社員ときたら、あの人たちは、次から次へカメラを買い替へるんだよ。無類のカメラ好きなんだよ。会議のホワイトボードを記録するのにハッセルブラッド遣っている人を見たよ。(ハッセルブラッドなんて知らないが、多分途方もないカメラなんでしょ)ぼくは、写真を撮らない。カメラが見えない。まるで関心が無いから目に入らない。目に入らないものは存在しなかった、とカメラは宣言した。ぼくは今年、カメラの無い世界へ自発的に移住することを宣言する。カメラ?んん?水タイプのポケモンですかな??なんて感覚。その代わり、写真集をたくさん見たいと思う。どら焼きと写真集を囲んで語らう、月例のお茶会を催したい。カメラをもっている人の参加は、ご遠慮いただく。カメラの無い世界で写真を眺めたら、どんな気分だろう、それが、この会の主旨なのです。おいしい紅茶と、どら焼きをご用意いたします。どなたもお待ち申し上げております。写真集と、何冊かの伝記と、編み物の教則本と、リネンのカタログがございます。