少なく、軽く

仕事を沢山する人というのが居て、とにかく量がすごい人。質は玉石混交かもしれないが多く生み出す。以前はそういう人に憧れたものだが、よくよく考えてみたら、自分の生理からするとそういう人がいちばんいいとは感じない。少ないのもいい。なにが困るかというと、後世に勉強しようと思う人が困るのだ。作品が多いと。全て見てやろうと思うのだが、手に余ると、残念な気持ちになる。この人はどれを見ておけばいいの、と思う。いっぽうで、作品が少ない人の場合、それしかないから便利である。この人はこれだけだから、と思う。集中して当たって、鑑賞したらおさらば。ときどき見返す時も安心、いつもそこにある。こういう気楽さって、わかるだろうか。

世の中には、質も量もという人もいて、例えば、手塚治虫とか。ファレル・ウィリアムズとか。モンスターだろう。ところがどっこい、ディアンジェロみたいな人もいて、十年に一度しか作らないが原液のように濃厚なのだ。彼が毎年アルバムを出すと言いだしたら勘弁してくれと思うのはぼくだけじゃないだろう。二枚の名盤があるだけ。エントロピーが小さい。慎ましい。後世のデータベースへの負荷も小さい。ぼくの生理からすると、好ましいのはこういうタイプである。より好みをいうとするなら、一つ一つが軽いといい。原液というよりはお茶が好き。軽くて少なければいうことなしだが、霞をくっても仕方が無いから、自然と多くなるのは世の常だろう。そこはむしろ微笑ましい。

十年程前、小島功という老作家に絵を依頼したことがある。十日程〆切を過ぎて自宅へ受け取りに伺うと、手渡された原稿の絵の具は、まだ乾いていなかった。彼は〆切を十日過ぎてから、三十分で描いた。ああいう人に憧れる。絵も軽ければ、筆も軽い。いつ見ても同じものを描いていて、惜しくない。