Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

AI

ぼくは花粉症になったことがないから、花粉で頭の中がお花畑になったからではないんだけど、ここ何週間もずっと、生命の起源について考えている。最初の生命について空想している。万能細胞の騒動も関係あるかもしれないが、ゼログラビティという映画の方が大きいかもしれない。宇宙と生命と人間についてティーンエイジャーみたいにおそれているのだ。水曜日の夜、新幹線の座席で、「利己的な遺伝子」の最初の半分を読んでいた。リチャード・ドーキンスの好著は、ヒトデくんが貸してくれた。だいたいの論旨は理解しているつもりで、急いでページをめくったのだが、ぼくが知りたいのは、やっぱり、最初の生命だった。ドーキンス氏は、簡潔かつ明快に書いていた。それは、自己複製子である。原始の海で偶然生まれた、自己のコピーを作れる分子が、最初の生命。この回答に、ぼくは大いに満足した。すっきりした。たぶん、限りなく正解に近いだろう。

四〇億年という時間を思うと、かなしいのか怖いのか、消えてなくなりたいような気分になった。おつかれさまです、みたいな気分にもなった。地質学の時間と、盲目の時計職人の比喩で、最初の生命と進化はだいたい理解した。そこで、次に考えるのは、人間について。人間に心と言葉があり、宇宙について空想しているのは、どういうことなのか、ということ。こういう、ティーンエージャーっぽい問いは一つづきになっているようで、ヒトデくんの本棚には、ロジャー・ペンローズの「皇帝の新しい心」もあった(今度はあれを借りよう)。クオリアとか、哲学的ゾンビとか、ああいう議論が、ぼくには良く判らずにいる。脳だけが心をもつんだろうか、と思う。傘や椅子も、かれらなりのやり方で考えているんだろうか、と思う。土曜日は、午後三時から、終わりまで「電王戦」を見ていた。コンピューターと人間が将棋で対決するのである。場所は小田原城だった。

AIとロボットアームが盤面をはさんで棋士と対峙している映像を見ていると、最初の生命と人間についてだれもが思い直しても不自然じゃない、と思う。四〇億年かけて、我々はなにをやっているんだろう、と思う。とくに、ロボットアームがいい。はらはらするのがいい。大将として出場する将棋ソフト「Ponanza」を作っている山本一成さんは、はてなブログを書いていて、いま、いちばん幸せになれるブログである。土曜日の第四局の前にも観戦のポイントを書いていらっしゃって、ツツカナの「▲2六金」の図を頭に入れておいただけで、何倍もたのしめた。その、ツツカナを開発している一丸貴則さんも、はてなダイアリーを書いている。「明日から電王戦」と題されたエントリーにある、「息をしているだけで楽しい」という表現には感動した。終盤戦に入り、ぼくは、ぼくの仕事をコンピューターがやるようになるだろう、と思いながら見ていた。

ニュースの編成も、AIがやるようになるだろう。ニュースの編成が、将棋よりむつかしい課題であるとは思えない。コンピューターにうってつけの仕事だと思うのだ。人間にとっての良識を、公共性を、コンピューターがいつも計算し、調律し、再配置している、そんな世の中になったらいい。楽をしたいから言っているのではない。それもあるけれど、そういう在り方が、ぼくの考えているニュースにとって自然なのだ。中立であれ、というのとは、少しちがう。透明であれ、といった方が近いが、やはりちがう。あえていうなら、写生するのだ。人間を、高速で写生するなにか。たえずレンダリングする営み。そういう営為が、ぼくの考えるニュースで、人間の仕事ではなくなっていくかもしれないけれど、(だからこそ)AIに手を貸したい。AIと人間が、社会の良識という、古代からのパズルをいっしょに探索する。きっと「息をしているだけで楽しい」時間だろう。