ハローする確率

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ハロー、

東京にいるときも、京都でも、ランチタイムに散歩をする。ユトレヒトや隣りの洋品店、骨董通りの池内タオルへいく。寺町通の古道具屋のウィンドウを眺めたり、古筆切の店主にびびらされたり、夷川通のカフェや、指物店を見て歩く。そういうとき、財布を忘れると、歩いている気がしないのだ。そこにいるのに、いないような心持ちなのだ。だから、今週は無駄遣いしないようにしよう、と思っているときでも、散歩へいくときは、財布をもっていく。お金を払わなくても、払へる準備はしておく。なぜだろう。

はじめて入った店で、気に入った店で、好ましいなにかを見つけたとき、財布がなかったら、言葉が話せない人の気分だ。いや、言葉なら話せるのだ。いいですね、これはどういうものですか、と、ぼくは尋ねることが出来る。けれども、それは嘘だ。空ろな言葉だ。ほんとうだったら、ぼくはなにも言わない。息を詰めて、それをじっと見る。ああ、いいな、買おうかな、買へるなあ、と少しずつ距離をつめていく時間に比べたら、店主に掛ける言葉なんて、水溜まりの泥に落ちて、かえると遊んでいればいいのだ。

ランチタイムの散歩に財布を忘れたら、カメラを忘れた写真家の気分だ。世界とかかわるすべが無いんだ。そこにいるのに、いないのだ。そういう気分になりたくないから、ぼくは財布をもっていく。お金はぼくを空ろな言葉から遠ざけてくれる。たくさんあるか少ししかないかは関係ない。少しのお金が、ぼくを集中させてくれる。こういうのって、分かるだろうか。いつも、昼休みの散歩をしながら、こんなことを考へて、学んでいたんだけど、最近、本を作ってから、もっとよく考へるようになった。言葉とお金。

昔、本を作ると、うれしいから、友人に配って回ったものだ。一〇〇冊くらいは配っていた。通りを歩いている、街中の人に配って歩きたくなり、叫びたくなり、じっさいそれに近いことをやったこともある。いま思うと、たいへん迷惑な話で、テロですが、そのくらいうれしいんだよ。今回もそんな気分だったんだけど、さあ、置いてくれるお店をさがそう、という段になり、どんな人が、この本にお金を払ってくれるんだろう、と想像してみると、配ったらいけない気がした。そうしたら、本が、世界とかかわれない。

ハロー風景が、だれかとハローして、ああ、いいな、買おうかな、買へるなあ、と少しずつ距離をつめていく時間は、ハロー風景と、その人のものだ。ショートカットしたら、いけないんだ。日曜日の朝、いつも通り、午前十時半に起きたら、日本代表が負けていたようなもので、ちっともリアルじゃない。わかるでしょう。ハロー風景が、どこかで、だれかとハローする確率は、ぼくたちには、ふれられない。だから、少し怖いけれど、どきどきしながら、〈読者〉を待っている。友人には、あんまり配っていないんだ。