本の虫たち

しばらくブログを書いていなくて心配していた人が、はてなハイクで元気にやっているのを見掛けてうれしかった。ぼくも書いていなかったけれど、といっても一ヶ月くらいか。時々スターを付けてくれる人がいた。「元気?」と声をかけられている気がする。はてなにはスターフレンドという、互いにスターを付けた人の繋がりがあるんだけど、スターフレンドだけに見せられるエントリーが書けたらいいのに。なんてことを、ずっと言っている気がするけど、もしかしたら書けるのかもしれない。

夏も終わり、世の中も狂ったことばかりで、気分が落ち込んでいましたが、根津美術館の「涼風献上」へそろそろ行きました。行った人いますか。団扇の形をした肥前の皿があったでしょう。あれよくない。陶器の皿が、団扇の形しているの。細い柄が伸びているの。あれいいよね。雪の積もった柴垣の絵が描いてある。夏の皿だから、冬の絵を描いたんだよ。展示の解説もお茶目で、「梅肉で和えた鱧を盛っているのを想像してみてください」とあった。悲観的な想念ばかりで、心が沈んでいたけれど、くすっと来た。

大文字の夜、恵文社一乗寺店で開いた集いへ「お風呂の俳句」を選んでいった。ゲストにお越しいただいた堀部店長の機転で、参加者の皆で好きな句に点を入れる、という投票をおこなったんですが、これがどうして、とても面白かった。こういう簡単な投票でも、その場にいる皆が評価する、その場が決めた好句、佳句が見えて来る。渥美さんと隣り合った老婦人が、ふたりともフェミニンな句を好んだのが、おかしかった。句会でも、こういうことはあると思う。テレパシーでもない、マナーでもない、なにかが伝わる。

大原くんは気に入ってしまい、中目黒デッサンのオープニングパーティーでも同じ投票をした。集まった皆で、ドローイングと俳句、それぞれに投票する。ぼくは自作の句の解説を即興でしたんだけど、みんな一体となり耳を澄ましてくれ、ありがたかった。かれらは俳句を新しい芸術として見てくれた。それが、ありがたい。ぼくも同じだから。俳句がやりたくて俳句をしている人のことは知らない。古めかしいことをしたい訳ではない。こういう芸術が、不思議で新しいから知りたいのだ。小さくて、いい夜になった。

この夏の一つ一つを、反芻するので精一杯だ。一々ここに書き出していたら、アイディアはかっぱらわれ、論評されたと怒りだす人があらわれ、先週は京都にいたらしいね、とやたら詳しい人に出くわす。そういう空騒ぎも、ぼくは嫌いではない。そういうのに不慣れな人は、はてなにいられたもんじゃない。ぼくの願望は二つあって、なにもかも全部書きたい。それも、だれもが見られる場所で、なにもかも。もう一つは、気心の知れた間柄で(あるいは、スターフレンドのような間柄で)ひっそりと書きたい。

いずれにせよ、ある期間(半年から一年くらい?)ほぼ毎日書いてみたい。このタスクにそろそろ手をつけておきたい。というのも、菊地成孔さんのブログをホスティングしていた時「ぼくもいずれ、これ、やらないといけないな」と思っていたのだ。かれは毎日書いていて、ご存知の方もいると思いますが、精神に変調をきたした。「スペインの宇宙食」という本に書いてある。「すごいなあ」と思っていた。「ぼくもやるんだろうなあ」と、なぜか思っていた。菊地さんはあの時、三〇代後半だったと思うから、そろそろだ。

幸い、あれから一〇年以上が経ち、プラットフォームも進化している(ですよね?)。インターネットの風景も、ずいぶん様変わりしている(はずだけど…)。なにも精神に変調をきたす覚悟で、グーグルボットとその他のボットがうようよしている全体公開の煉獄へ飛び込んでいく必要はないのだ。テクノロジーの強さに対して、人間に同じだけの精神の強さを要求するというのは、考えてみれば、おかしな話だ。急いで書き出そうとは思わない。二、三年先になってもいい。そういう時期を作れたらいい。

土曜日はつくばへ遠出して、見慣れぬ車窓と駅名に、知らない人のアルバムを見ている思いだった。人間のスケールと不釣り合いな大通りをタクシーで走ると、筑波山の青い輪郭が浮かんでいた。大学のグラウンドの前の珈琲店で、店主がビリヤードに似た卓上ゲームをしていた。東欧のものだと聞いたが名前を忘れてしまった。テーブルに置いた二五〇円の珈琲は、ここまでの距離に比して余りに小さく、かわいらしかった。おはじきの石の音を聞きながら、ぼくはここでも、背の低い本棚に目を凝らしていた。