祈り

先日、村田智くんと久しぶりにゆっくり話す機会があった。かれの口から「祈り」という言葉が出てきた。「祈り、について考えています」と言った。「仏壇の前で祈る人は、何を考えているんだろう、とか。ずっと考えていったら、仏教とは何か、ということになるかもしれません」。この年の離れた友人からは、学ぶことばかりなので、ぼくは注意深くなった。「音楽を聴いていても、思うことがあります。これは、もしかしたら祈っているのかな、と」「祈りというのは、ぼくのイメージだと…無防備な状態。目を閉じている。観察せず、行動せず、ただ願望だけしている。実現するための施策を放棄している。だから…あんまりいいと思わない。願いが叶う見込みが薄いと、行動しても仕方ないから、人は祈るのかもしれない」「祈り、というものがなぜあるのか、よく分からないから、祈りが気になるのかもしれません」「たとえば、お百度参りってあるけど、無意味だよね。病気が治りますように、とか。自分がコミットできない課題に対して、何もしないでいるのはつらいから、替わりのタスクを与えてもらっている、というだけだよね」「手順があったりしますよね」「たしかに。祈りは手順だね。ダイアグラムっぽいかも」

「夜、眠る時にも、いつもの手順ってありますよね。ものを置く場所とか、並べ方とか、身体の向きとか、順番がありますね」「あるね、毎朝、仏壇に手を合わせるのは、それに似ているね。祈りを習慣にしているんだな」…こんな風に、会話が進んでいく。村田くんとぼくは冷静に、もやもやしたものを腑分けしていく。だけど、この日は、ぼくは何か、危ういものを感じていて、というのも、「祈り」って恐いんだ。祈りたくないのに、ぼくはいつも、自分が祈り続けているのを、知っているのだ。「人間っていつも祈っているよね。祈りが常態化している、というのが本当だよね。バスに乗りたいとか、コーヒー飲みたいとか、いい席に座りたい、とか。欲求と祈りが、どう区別されているのかは知らないが、どうしても叶えたい欲求があると、祈るんだ」「バイアスがかかりますよね」「それがいやなんだよね。祈りはじめると、現実のデータが見えなくなるんだよね。いい材料として解釈するんだが、たいてい、逆だよね」「祈りは、願いが叶うかどうかとは関係ないのに、際限なく祈れるんですよね。祈りが足りない、とかいって」「だいぶ危ない。そうなりたくないけど、気がついたら、祈っている」「風景が、見えにくくなる」

「ぼくの考える風景というのは、」と村田くんは言った。「どこにいても、見つかるんです。なにを見ても、タブローがある」「祈りの反対側にあるのは、生の現実のデータだけの世界かもしれないね。天体望遠鏡みたいな」「科学者も祈りますよね」「そう、科学者も祈るね。切ない」「少し分かってきました」「あらゆる祈りを拒否して、何万年も宇宙を観測しつづけるみたいなのは、孤独だし、一回りして、祈っているような気もする。ぼくの考える風景というのは、祈っていない、観察している自分という冷たいものを、そのまま投影するんじゃなくて、お菓子みたいに、表を薄くコーティングするのね」「温かいものですね、よく分かります」「そうそう。表面が温かくて、甘くないと、かわいい子は食べてくれないのね、ふわふわ、でもいいんだけど。もちもちでもいいし」「ぼくの作るものは、女性には退屈に見えるんです」「いや、村田くんはちゃんとお菓子になっているから、大丈夫」…こんな風に、会話が進んでいく。おもしろ半分かもしれないが、村田くんとぼくにとっては、切実なのだ。「この表面の薄い、薄い温かくて甘いものが、ぼくにとっては、小さい小さい祈り」「すばらしい生活のはじまり」


このあと、ぼくは、気になって調べてみた。俳句的なものの見方において、「祈り」とはどういうものか。村田くんに、ちゃんと答えられただろうか。松山市立子規記念博物館のサイトで、正岡子規の句の全文検索が出来る。そこへ「祈り」と入れてみた。

掛乞を祈りかへすや小山伏
短夜の祈り験なく明けにけり

最初の句は、年の暮れの借金取りに、山伏が払わず、祈っていた。次の句は、夏の夜祈っていたら、なんの甲斐もなく朝になってしまった。ぼくは安心した。ぼくたちホトトギスは、祈らない。もう一つ、村田くんの直感している、「祈り」と「手順」は、おもしろい視点だと思う。「祈り」というのは、身体的なのかもしれない。作法なのかもしれない。もしかしたら、あれこれ祈らないで済むように、いつものやり方で祈るのかもしれない。あるいは、いつもの手順を一つ一つこなしているとき、人は祈っているのかもしれない。


2014/10/20 9:30