キッチンのコラム

午後のはじめに鶏を食べながら「カメラがほしい」と口にしたら「それ去年も言ってた」と言われた。妹はシャンプーの後で丁寧に髪を整えていた。回想すると、たしかにブログに書いていた。どんな文章だっけ。カメラがほしいと思うのだが、〈わたしの中の長老〉がやめておけと戒める、うんぬん。残りものの鶏は細くスライスしてあった。水をはじくテーブルクロスに薄い日溜まりができていた。カメラがほしい気がする。そうっと〈わたしの中の長老〉がいた部屋を開けてみると、だれもいなかった。今年は留守だった。いると思っていたので、絨毯をひっぺがしたり、ソファをどかしてみたけど、長老は挟まっていなかった。「一年経っても同じこと言ってるんだから、買えばいいのに」

一年の内で大晦日が一番いい、とだれかがツイートしていた。賛成。とりたてて騒がなければ凪いでいて、再生への点火の予感だけがある一日。知らない人の好ましいツイートを目にするのはいい。その人がどんな人なのかは知らなくてもいい。知り合いのツイートを目にして、こんな人だったっけ、と思うことがある。だれだろう、と訝しい時がある。この感覚も忘れてしまうだろう。棒のようにつづく生活の上を、へっちゃらな顔をして歩いていかなくちゃ。皿とフォークをキッチンへ運んだ。牛乳とフルーツグラノーラをとってきて、波の形になった椀へ注いだ。〈真夜中〉さんが、先週の文章をリツイートしてくれていた。不思議の国のアリス風にいえば、なんでもない日おめでとう。

カメラかな?一年ぶりの気配に水をやりながら初詣の参道を上がっていく。同窓生の高木くんの眼鏡屋は建て替えられている。時計屋(ここで買ってもらったデジタル液晶をタクシーに忘れて泣き叫んだ)は変わらずにある。ピーナッツ屋さん、ペット屋さん。軒先のオウムは人の子くらいの大きさで、まだ生きている。三〇年前、すでに人の言葉を話していたから、いまやスペルを詠唱するだろう。〈おもちゃのドリーム〉のシャッターは降りたままになっている。少し先へ上った〈じびき〉のシャッターは半開きになっている。通りを渡った古いコーヒー豆屋は〈ストロベリー〉というんだけど、無残に剥げ落ちた看板の、切り絵めいたポットとカップを目にしたら、カメラがほしくなる。

〈わたしの中の長老〉をありありと思い浮かべることができた。「カメラを買ったらダメじゃよ」と口癖のように言っていた。そのくせ自分は持っていた。いつも首から下げていて、小さいベッドで眠る時もとらなかった。いやいや、あんなカメラは見たことがないから、とくべつの機械かもしれない。写真は撮れないのかもしれない。だけど、四六時中カシャカシャとうるさかった。シャッター音を立てたかったんだろう。錆だらけのハンドルをくるりと回すと〈カシャッ〉と音が鳴った。長老は顔を上げて〈どやっ〉という表情をした。とても誇らしい風情で、退役士官を思わせた。猫のように駆けずり回り、ハンドルを回し疲れると、竹で編んだベッドでいつの間にか寝息を立てていた。

風邪で寝込んでいた老父が起きだして「これが君たちの年賀状だ」と言った。二、三〇枚もあるそれは一九八〇年代のものばかりで、鉛筆で孑孑のようにつたない字が書かれていた。「なんだいこれは」「君たちに届いたんだよ、わたしが預かっていたらしい」差出人を見ると小学校の同級生たちだった。眼鏡屋さんの高木くんからも来ていた。いとうくんへ、今年もあそんでね、ウルトラビーだね、とかなんとか。「なんでいまさら、こんなものがでてくるの」「わたしがとっておいたんだよ、君たちは子どもだったから」「そんなの、心の準備ができてないやい」「ありがとうと言ってくれないのかい」「こんなのあるもんか」「わたしの遺品整理だと思って」そんなこといわないで。

ごくわずかの日程をこなした夕暮れ、キッチンで塩茹でしたエビを剥いているあいだも、歳末に書いた文章への通知がつづいていた。気にしないでいよう、とぱりぱり剥きながら思案していた。ツイッターアナリティクスを開いてみたくなるけれど、そういうのは忘れてみて。〈去年今年〉という季語が気に入られたのかしら。時候にあったテクストだったのかな。みんな、そんなに俳句好きだっけ。長くないかな、先週の。わかんないなー。お百姓さんとロバのコップに紅茶をいれている。〈プリンス・オブ・ウェールズ〉に砂糖を入れ、正月のエビを剥いている。宵闇がなれていく。こうして台所で過ごすような文章が作れたらいい。長老の帰りを待ちながら、カメラについて空想している。